物体の回転について
新房昭之総監督のアニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(以下『打ち上げ花火』)で読書会を行ったので、そのメモを残しておく。
以下ネタバレを多く含むので、『打ち上げ花火』を一度視聴してから読むことを強くお勧めする。
本稿では、主に「『打ち上げ花火』のループの性質」と「そこから得られる結末の解釈」について述べたいと思う。
まず内容に入る前に、ループに番号を振る。
本編開始から掲示板に向かって島田典道がもしも玉を投げるまでが0周目。
プールでの50m競争から灯台の上で島田典道がもしも玉を投げるまでが1周目。
もしも駅のホームでの諍いから島田典道と及川なずなが灯台から落ちるまでが2周目。
電車で及川なずなが歌うところからもしも玉が打ち上げられるまでが3周目。
以下この番号を用いて場面を説明する。
0.もしも玉の力
『打ち上げ花火』のループは、例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」のループや『STEINS;GATE』のループとは大きく性質が違う。例に挙げた2作品は、どのループも等しく「現実」であるが、『打ち上げ花火』の1周目以降はもしも玉が見せる「幻想」である。
もしも玉*1
もしも玉は投げるたびに島田典道が望む世界を見せる。「もしあの時におれが祐介に勝ってたら」「もしもおれとなずなが電車に乗ったら」「もしも祐介やおまえのかーちゃんに見つからなかったら」。もしも玉を投げると少し前の時間からループが始まるため、同じ世界をループしているように錯覚するが、1周目以降の世界は創られた世界だ。
島田典道がもしも玉を投げるとき、もしも玉には強い光が当たっている。ここで、もしも玉がフレネルレンズをモチーフとしていることが効いている。フレネルレンズとは、通常のレンズを同心円状の領域に分割し厚みを減らしたレンズであり、主に灯台用の照明に用いられる*2が、小型の映写機のレンズとしても用いられている。つまり、強い光を受けたレンズとしてのもしも玉が、島田典道に望む世界を映写しているのだ。特に0周目の時の表現は露骨で、もしも玉によって集光された太陽光が、島田典道の目に飛び込むと同時に1周目に飛んでいる。
「使用者に望む世界を見せる」というもしも玉の力は、『ドラえもん』のひみつ道具「もしもボックス」によく似ている。「もしもボックス」とは、電話ボックスの形をしたひみつ道具で、中に入って受話器を取り「もしも○○○だったら」と言うことでその通りの世界に行くことができる、というものである。
上の画像でドラえもんが言っている通り、もしもボックスはあくまで実験室だ。もしもボックスが見せる世界は仮初でしかなく、いつかは戻ってこなければならない。もしも玉も同様だ。もしも玉が見せる世界は仮初で、いつかは戻ってこなければならない。
1.物語の補助線
引き続き『打ち上げ花火』を読み解くにあたって、画面にちりばめられた暗喩について考えていきたい。
『打ち上げ花火』は、全編を通して学校の校舎や螺旋階段などの「円形であるもの」や、風力発電機や灯台などの「回転するもの」を執拗に画面に映している。これらのガジェットは、本作品がいわゆる「ループもの」であることを示唆している。
特に、風力発電機が映っているカットは異常なまでに多く、その回転(もしくは停止)は重要な意味を持っている。時系列順に見ていこう。
本編開始直後、明け方、島田典道が目を覚ます前。風力発電機の回転は止まっている。主人公であるところの島田典道がまだ眠っていて、物語がまだ動き出していないからだ。
島田典道が目を覚ますと同時に、風力発電機は時計回りに回りだす。以降、0周目の風力発電機の回転方向は全て時計回り。
0周目終盤、島田典道が掲示板に向かってもしも玉を投げた時、風力発電機は止まっている。そして1周目に突入した直後から、風力発電機は反時計回りに回りだす。以降、1周目の風力発電機の回転方向は全て反時計回り。
これは明らかにおかしい。『打ち上げ花火』で描かれているような大型の風力発電機の回転方向はブレードの角度によって決まっていて、突然逆回転することはあり得ない。私はこれを『打ち上げ花火』における「物語の補助線」であると見たい。やはり、この世界は異常であり、本来いてはならない場所であることを、風力発電機の回転で表現している、ということである(ちなみに、0周目と1周目で回転が反転しているのは風力発電機だけではない。スプリンクラーやサンキャッチャーなど、ほとんど全ての回転が反転していると言っていい)。
2周目に風力発電機は登場しない。1周目終盤で平べったい花火を見せたことで、この世界が異常であることを見せる必要がなくなったからだ。
3周目、もしも玉の中に囚われたところ。風力発電機の回転は止まっている。この世界が「行き止まり」であるからだ。
3周目終盤、花火師のおやじによってもしも玉が打ち上げられ、もしも玉の世界が崩壊すると同時に、風力発電機は時計回りに回りだす。もしも玉の世界から解放されて、0周目の世界に戻ってきたことを意味している。
このような「物語の補助線」となるガジェットは風力発電機だけではない。0周目の、及川なずなの顔から飛び立つトンボ*3の複眼から見える二人の姿は、これからいくつもの「もしもの世界」を経験する二人を示唆している。このカットは、3周目ラストでもしも玉の破片の中に「あり得るかもしれなかった二人」が映るシーンとよく似ている。
また、0周目で島田典道が安曇祐介の父親の病院で診察を受けたとき、安曇祐介の父親はゴルフの練習をしているが、外れ続けるゴルフボールたちは、何度「もしもの世界」を経験しても、それは幻想でしかなく、正解にはたどり着けない島田典道を表している。
これら「物語の補助線」の存在は結末の解釈に大きく影響してくる。
2.ループで得られたもの
0.で述べた通り、もしも玉の力はもしもボックスのそれによく似ている。もしもボックスは『ドラえもん』全45巻で何度か登場しているが、お決まりのパターンがある。のび太が現実の何らかに嫌気がさして、もしもボックスでもしもの世界を創るが、酷い目に会ってもうこりごりだよと現実に帰ってくる、というものだ。「もしもの世界」を「こりごり」だと思って帰ってくるため、もしもボックス登場回は教訓じみた内容になりやすい。さて、もしも玉がもしもボックスによく似ていて、教訓を持って帰ってくるところまで似ているならば、もしも玉のループから島田典道が得た教訓とは何か?
月並みな回答になるが、その教訓とは、「未来は自分の手でつかみ取らなければならない」であると私は思う。『打ち上げ花火』において島田典道は徹頭徹尾無力だ。50m競争に勝つことも、及川なずなの両親から逃げることも、ひとりの力では能わず、もしも玉の力に頼らなければならない。1周目や2周目で花火の形を見て「この世界はおかしい」ことに気がつくが、それでも頼るのはやはりもしも玉である。3周目でもしも玉の中に囚われた時でも、「なんかおかしい」とぼやいたり、及川なずなに見とれるばかりで、脱出の直接の功労者は花火師のおやじだ。そして3周目ラスト、自分は無力で、もしも玉が見せる世界は仮初で、もしも玉の破片に映る無数の「もしもの世界」はあり得るかもしれなかった未来で、それらに気がついた島田典道が得た教訓とは、やはり「未来は自分の手でつかみ取らなければならない」であると考えるのが自然だろう。
3.結末、そして
決意を新たにした島田典道はその後どうなったか? まずはもしも玉の世界が崩壊した直後から見てみよう。もしも玉の力のルールとして、n周目のループで耳鳴りが鳴った地点が、n+1周目のループの開始地点となっている。0周目は50m競争のターンの直後に、1周目は駅のホームで、2周目は祐介に見つかった瞬間に耳鳴りが鳴っている。しかし、一つだけループの開始地点にならなかった耳鳴りがある。0周目序盤、登校途中、島田典道が海岸に立つ及川なずなを見つけたシーンだ。本稿では、もしも玉の世界の崩壊後はここに戻ってきたと考えたい。
ではいよいよ結末の解釈に入ろう。ラストシーンはおそらく2学期始業日の9月1日*4、担任の三浦晴子先生が出席番号順に出席を取る。ここで及川なずなの名前は呼ばれない*5。その後、島田典道の名前が呼ばれるが、返事はなく、そのままエンドロールが流れる。
島田典道はどこに行ってしまったのか? インターネットでは、及川なずなの道連れで溺死した説*6、ふたりとももしも玉の世界に囚われたまま説など様々な意見があるが、前者は1か月も前の生徒の死亡をクラス担任が知らないはずがないし、後者は片方だけ名前が呼ばれた説明がつかない。結末のヒントは画面の中にすでにある。
ラストシーンに入る暗転の直後、三浦晴子先生が出席を取る前、ふたりの男子生徒が校庭を走っている。
ふたりのうち一方は稔である。もう一方は制服から少なくとも男子生徒であることが分かるが、顔が映らないので誰かまでは分からない。またこのとき、8月1日にはあれほど賑わっていた校庭には、ふたりの男子生徒を除いて誰もいない。直後に三浦晴子先生が出席を取る声が入ることから、今は始業直後であり、全生徒は既に教室にいることが推測される。つまり、このふたりは遅刻である。
私は『打ち上げ花火』という作品を信頼している。何の意味もなく稔と謎の男子生徒が遅刻したシーンを映すわけがない。もう一方の男子生徒の正体と、ふたりが遅刻してきた理由に真の結末が隠されている。
男子生徒の正体から考えよう。『打ち上げ花火』で登場した主な男子生徒は、島田典道、安曇祐介、純一、稔、和弘の5人。いま問題にしている男子生徒の正体は、ここから稔を除いた4人のうちの誰かだと考えていい。
ここで、ふたりの男子生徒が校庭を走っていたのと同時刻と思われる教室には、和弘と安曇祐介の存在が確認できる。
簡単な消去法だ。「名前を呼ばれて返事がなかった島田典道は、実は稔と一緒に遅刻していただけ」という考慮に値しないオチでないならば、稔と一緒に校庭を走っていた男子生徒は純一である*7。
男子生徒の正体は分かった。次にふたりが遅刻してきた理由だ。なぜ稔と純一のふたりなのか? ここからは発想の飛躍だと詰られるを覚悟で言うが、ふたりは及川なずなを追いかける島田典道を駅まで見送っていたと私は考える。和弘は島田典道を見送ることはない、なぜなら島田典道のグループとそれほど親しいわけではないから*8。安曇祐介もこの理由で旅立つ島田典道を見送ることはない、なぜなら恋敵だから。三浦晴子先生は島田典道がいなくなったことを知らない、なぜなら子供たちだけで考えた計画だから。
いかがだろうか。あり得るかもしれなかった「もしもの8月1日」を何度も経験し、理想の世界に見えるそれは幻想でしかないと理解し、「未来は自分の手でつかみ取らなければならない」という教訓を得て、8月1日の朝に戻ってきた島田典道は、及川なずなに告白をし、「必ず追いかけるから」と約束をする*9。『打ち上げ花火』全体の演出から見ても一貫していて、綺麗な結末であると言えるのではないだろうか。
さあこれで謎は全て解いた。あとは米津玄師×DAOKO『打上花火』を聴きながら余韻に浸るだけだ。本編でも何度か出てきているが、『打上花火』のイントロ中に映っている花は、ナズナの花である。
『打ち上げ花火』において、画面にナズナの花を映すことには、単に及川なずなの名前と掛けている以上の意味がある。ナズナは一本に通った茎から葉が枝分かれした形をしている。また、ナズナはペンペン草とも呼ばれ、茎を手に持って回転させて「ペンペン」と音を立てる遊びがよく知られている(実際に、及川なずながナズナを手にもって回すカットがある)。
さらに言えば、ナズナの語源には所説あり、撫でたいほど可愛い花、撫でいつくしむ花という意味で「撫菜」という説や、夏になると枯れて無くなる花という意味で「夏無」という説などがあり、本作品のヒロインとしてピッタリの……
ちょっと待ってほしい。夏に無くなる? ナズナの開花時期は1月中旬から5月中旬。『打ち上げ花火』でナズナが映っているのは、0周目の8月1日と、もしも玉が崩壊した後の9月1日だ。明らかにおかしい。我々はもしも玉の世界から戻ってきたのではなかったのか? 0周目の世界すら創られた世界だったのか?
もはや『打ち上げ花火』は私の手には負えなくなってしまった。これ以降の考察は読者諸兄姉に任せたい。以上、今年も良質な映画に出会えることを願って。
*1:本編ではこの玉に名前が付けられていないが、制作スタッフの間では「もしも玉」と呼ばれていた。
(打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?公式ビジュアルガイド 監修 東宝 シャフト、2017 p77)
*2:本編に登場する灯台のレンズがもしも玉と酷似しているのは当然と言える
*3:もしも玉のようなガラス細工の玉のことを「とんぼ玉」と呼ぶ
*4:本編は8月1日の登校日なのでその1か月後
*5:少なくとも及川なずなが引っ越した後の話であることが分かる
*6:及川なずなが人魚姫をモチーフとしているという前提で『打ち上げ花火』を読み解くのも面白いと思う
*7:純一と和弘と稔の苗字は分からないため、出席から推測することはできない
*8:0周目の登校シーンを見ればわかるが、4人でふざけながら登校している中に、和弘だけいない